ChainFocus EX#3
@IZMO Gallery 2012/3/24 – 2012/3/27
No.1 photo by halu9
●テーマ「卒業」
2012 年 3 月 23 日、僕とはたちは、大学を卒業しました。大学一年生のときにサー クルで出会って、2人で話しているときに思いついた ChainFocus がこうして、大学 生活最後のときに写真展をすることができて、なんだか感慨深い気持ちでいっぱい です。
なので、EX#3 は、テーマ「卒業」から始めてみます。 写真は、フィンランドの北にあるロヴァニエミという街の近郊で撮影したものです。 北極圏の雪原の中、犬そりに乗って、ただひたすら走りました。後ろを振り返るこ となく、ただ前を見て、犬を走らせます。
北極圏といっても、あまり目に見える変 化はないのですが、雪原はとにかく広くて、静かでした。聞こえるのは、犬と僕の 息づかいと、足音と、そりが雪の上を滑る音だけ。犬はとても楽しそうに、そして 軽やかに雪の中を駆けて行きます。 雪原を犬と一緒に進みながら、この光景と、これまでの17年間の学生生活がだぶ って僕には見えました。それは泥臭くても、ひたすらただ前に進もうとして、でも めいいっぱい楽しんで過ごした17年間だったから、です。
たくさん迷って、転んで、間違って、立ち戻って、愚直に一歩一歩進んで、ひとつ ずつ何かを手に入れて、またなくして。結局大事なものなんて、いくつもないんだ なぁなんて当たり前のことに気がついて、ようやく自分にとって本当に大事なもの がわかってきて。
そんな17年間。 何回迷おうが、転ぼうが、別に良いんですよね。そんなのどうでもいいんです、き っと。道はたくさんあるのだから、何が正しいとか間違ってるとか、人からどう見 えているとか、そんなの全部無視して、心が赴くままに進んでみるのが一番大切な んだと僕は思います。何回迷っても、何回転んでもいいんです。むしろそっちの方 が見える景色はきっと優しくなります。迷った分だけ、先に進めるんです。
卒業しましたが、これまで通り、泥臭くても一歩一歩軽やかに、寄り道すらも楽し みながら駆けていけるように、心が赴くままに進んでみます。
No.2 photo by はたち
●テーマ「本能と理性」
ハルクの#1 の写真には、まっすぐと雪原を走り突き進む犬たちの姿が写って います。彼らは必死に、でも懸命に犬ぞりを引き続ける。いったい彼らをそう させるものは、何なのでしょうか。
ぼくはこう考えるのです、犬ぞりを引いている犬は、しあわせなのかと。彼ら はなぜ、犬ぞりを引いているのか、と。 そんなところに、「本能と理性」の境界線を、ぼくは感じます。犬は彼ら自身 の理性を用いて、本能を封じている。主人であるファインダーの後ろ側の人間 たちに、なつき、人間たちのために走り続けている。
ぼくの写真には、ライブ・ペイントを行うひとりのアーティストが写っています。芸術、それは本能を、いや煩悩を昇華させるひとつのツールではないでし ょうか。彼は彼の本能を、芸術に昇華させることで自分を表現し、そして幸せ や充足感を得ているんです。
本能を理性で封じ、その理性によって仮想的な本能を昇華させることで、もし かしたらひとや動物たちは、満足感を得ることが出来るのではないか。そして それこそが、真の理性なのではないでしょうか。だからぼくは、ハルクの写真 に写る犬たちがしあわせではないと、言い切ることはできないのです。 
No.3 photo by halu9
●テーマ「祈り」
はたちの#2 の写真、ものすごく美しいですね。絵を描く女性の後ろ姿。絵の中に女 性も入り込んで1つの作品になっている気がします。
さて、一心不乱で描いている、女性の絵にはどんな想いが込められているのでしょ う。具体的なことはもちろんわかりませんが、色遣いや構図、描かれている女性の 周りの花などから、作者の女性が何かを祈りながら絵を描いているような印象を受 けました。
なので、今回のテーマは「祈り」です。 写真は、フィンランドのヘルシンキにある大聖堂の中で撮影したものです。ヘルシ ンキの大聖堂は、ロシア正教の影響を受け、カトリックの教会とは全く違う建築様 式なのですが、祈りを捧げて、蝋燭を灯すというのは一緒でした。
蝋燭の灯火は、 きっといろんなメタファーなんでしょうね。 人は何故祈るのでしょうか。最近そんなことを考えていました。たぶん、自分の無 力さを知っているから、だと僕は思います。自分ではどうにもできない現実と向き 合わなければならないとき、でもその現実と向き合って、受け入れて、それでも前 に進もうとするとき、人は祈らずにはいられないのでしょう。
祈るという行為はき っと、言葉が悪いですが、現実逃避とか逃げの姿勢なんかではなくて、現実を受け 入れて進むための、人の強さや、優しさなのだと思います。
祈って、希望を胸に抱いて、その希望を叶えるために行動して。窓の向こうにある 青空にはまだまだ届きそうもないけれど、それでも手を伸ばさずにはいられない。 人って無力で弱くて不器用ですね。でもそんな人が僕は好きです。
No.4 photo by はたち
●テーマ「いのちのともしび」
いっぽんのろうそくというものは、よくひとりの一生に例えられることがあり ます。だからぼくも、ハルクの写真をストレートに、いのちのともしびである と捉えました。
深く考えず、瞬間的にそう感じたのです。 では、ぼくの写真はいったいなんなのか。真っ暗でなんだかよくわからないけ れども、ひとがふたりいて、動物のようなものをちいさな明かりで照らしてい る。
実はこれ、屠殺の瞬間なのです。 ぼくがインドの砂漠地帯、ジャイサルメールに訪れたとき。いっぴきのヤギを 食べることにしました。生きているヤギを購入し、砂漠で”それ”を殺し、食べ ることにしました。もちろんぼくらが殺すわけではありません。テクニックを 持った、現地のガイドが”それ”をしました。
日本に生きていると、食べている肉たちが”いきもの”であったことを忘れがち です。しかし屠殺の瞬間を見ると、そのたいせつさ、たいへんさ、そんなこと に改めて気が付かされるのです。
ヤギの死体を闇の中で照らしながら、いっぽんのナイフで切り刻むそのシルエ ット。ぼくはそこに、ろうそくと同じようないのちのともしび、いのちの尊さ を感じたのです
No.5 photo by halu9
●テーマ「生」
はたちの#4 は、屠殺場か何かでしょうか。暗い部屋の中、動物がつり下げられ、ど うやら動物を切っているようです。この写真から動物の死と、人間の生が強烈に感 じられました。
なので、今回のテーマは「生」です。 #5 は僕の地元の茨城県つくば市で撮影した写真です。男性が電車(つくばエクスプ レス)の中で、基盤に針と糸で回路を作っています。導電性の糸を使って、回路を 作り、マイコン等で制御する「テクノ手芸」と呼ばれている新しいタイプの電子工 作です。なかなかおもしろい領域なのですが、この話は ChainFocus から脱線しそう なので省きます。
さて、この写真でもそうですが、人の「生」を考えようとすると、僕はいつも人が 何かを作っている様子を思い浮かべてしまいます。それは技術的なものやデザイン 系のものだけじゃなくて、絵とか音楽といったアートだったり、人と人との関係性 といった目に見えないものだったり。
俯瞰的に見ると、人は生きようとすると、必 ず何かを作っていると思います。つまり、生きる、ということは、何かを作ること、 と置き換えられるのです。生きるというより、人の「営み」と言い換えてしまって も良いかもしれませんが。太古の昔から、そしてこれから先も、それはずっと変わ らないんでしょうね。
「何かを作ること」、人としてごくごく自然であるのと同時に、最も尊いことだと思 います。でも受動的ではなく、積極的に自ら何かを作ることって技術的にも心理的 にもハードルがまだ高くて、多くの人が自分にはできないと思いがちです。僕も、 納得いくものがきっちりと作れないことで、コンプレックスを持っています。 でも、結局は「やるか、やらないか」なんですよね。理由をつけて「やらない」の は簡単です。
でもそこから、どんなに難しそうでも、つらそうでも、めんどくさそ うでも、ぐだぐだ考えずに1歩をとにかく踏み出してみる。その小さな1歩が、自 分にとっての大きな1歩になるんだと僕は信じています。全力で生きて、たくさん 作って、楽しんで。そんなサイクルを繰り返していくと、幸せですよね。
No.6 photo by はたち
●テーマ「無心」
ハルクの写真に写る手のひら、何かを持っています。でもそれがどこなのか、 その手が彼なのか彼女の手なのか、そしていったい何をしているのか、ぼくは まったくわかりません。
でも少しだけ、ファインダーの外側を想像したとき。 ぼくにはその手の持ち主が、どういう気持ちでいるのかがわかったような気が しました。彼(または彼女)の気持ち、それは無心だと。 無心になるなんて無理だ、と思うことはよくあります。座禅なんてできっこな い、絶対に思い切り叩かれてしまうと。
でもよく考えてみれば、ぼくたちはし ょっちゅう無心になっているのではないでしょうか。 何かに取り組むとき、海辺で水平線に浮かぶ船を見るとき、何かを握ってそれ を見つめるとき、そして、全力で楽しんでいるとき。ぼくらは無心になってい るのでは、ないでしょうか。
ぼくの写真に写っているひとたちは、全力でジャンプをしています。なんのた めのわけでもなく、なにを表現したいわけでもなく。ただ、ジャンプをしてい ます。彼らはきっとその瞬間を、最大限に楽しんでいることでしょう。 まさにその状態こそ、無心の状態であり、それはぼくたちにとって、いちばん 素晴らしい瞬間であると言えるのかもしれません。
No.7 photo by halu9
●テーマ「憧憬」
はたちの#6 を見て、単純に羨ましくなりました。どこかの砂漠の夕方、綺麗な夕 焼け空をバックに仲間で一斉にジャンプして写真を撮る。まさに青春の一コマですよね。
仲間、青春、いろんなテーマが考えられますが、こういうポーズの写真って よくあるモチーフで、いろんなところで見受けられますよね。僕もウユニ塩湖にい ったときに同じモチーフで写真を撮りました。それで、ふと、この人たちもどこか で同じモチーフの写真を見て、憧れを持って、それでこの場所で仲間とやってみた のかなぁと感じました。
なので#7 のテーマは「憧憬」です。 #7 の写真はパリのチュイルリー公園で撮影したものです。男の子が公園に設置さ れているメリーゴーランドを見て、佇んでいます。メリーゴーランドに乗りたがっ て、親にお願いしていたのでしょうか。その後ろ姿はどこかもの悲しくて、でもそ のもの悲しさがとても美しくて、ついシャッターを切ってしまいました。
憧憬を抱くことは、とても大事で、憧憬は自分が進むべき方向の指針になります し、同時に進むためのエネルギーになります。ただ彷徨するのもとっても楽しいの ですけど。憧憬を抱くことで、どの方向に進むか、そして進むための意思をしっか り持つことができるのだと思います。
誰かや何かに憧憬を抱くことは、今自分にはないものを見つけて、その価値を認 めて、それを欲することです。だからどこかもの悲しくて、でも同時にすごく前向 きで。その前向きなもの悲しさがとても美しい。常に憧憬を抱いて、見落としがち な小さな価値を探していきたいです。
ところで自分が美しいと思うものの理由をちょっと垣間見ることができると、す ごく幸せですね。そういう理由をこれからひとつずつ見つけていければと思います。 
No.8 photo by はたち
●テーマ「不安げな未来」
最初に説明をしておくと、この写真は「フィクション」です。つまり、合成です。 首元に傷がありますが、ぼくがフォトショップというソフトを使って、友人の首に 合成したものです。 この写真は、「チェルノブイリ・ネックレス」というとてもとても嫌な傷跡を表した、 ひとつのアート作品です。
かつてのチェルノブイリ原発事故のあと、ウクライナや ベラルーシでは、首元にこのような傷跡を持った人が増大しました。この傷跡が、 甲状腺がんの手術痕だから。医療技術が未熟であったがために、手術を受けた子ど もたちの首元に、それはくっきりと残ってしまったのです。いつしかその傷跡が、 チェルノブイリ・ネックレスと呼ばれるようになりました。
日本では甲状腺の手術 をしても、ネックレスができることはありません。でも、見えないネックレスが生 まれてほしくはない。フクシマ・ネックレスなんて、いらない。そんな想いを込め た、アート作品です。
ハルクの写真にどう繋がるのかというと、不安げな未来、そのものです。ハルクの 写真に写る男の子は、回転木馬をじーっと見つめている。彼はきっとその回転の中 に、何か将来に対する不安を感じている。ぼくにはそう見えました。このフィクシ ョンの写真も、やっぱり同じ意味を持っています。未曾有の大災害に襲われたぼく たちは、まだまだ先の見えない真っ暗な道を歩き続けている。
この少年のように、 ただひたすら動き続ける世の中という回転木馬を、見つめ続けていることしかでき ない。 暗雲たる気持ち、暗雲たる時代。訪れてほしくはない現実、見たくない現実、そし て見えない現実。語ればキリがないのですが、やっぱりぼくは不安です。
いまが不安だし、これからも不安です。不安げな未来というテーマは、そしてこのフィクションの写真は、そんなぼくそのものを反映したものなのかもしれません。
No.9 photo by halu9
●テーマ「現実」
#8 の写真はなんだか重々しい雰囲気の写真ですね。首に傷を持った女性が鏡越しに 自分の様子を見ています。目が写っていないので、その感情は窺い知ることができ ません。でも彼女は、痛々しい現実を逃げることなく、確かに見据えています。
なので、今回のテーマは「現実」です。 写真はマチュピチュに向かう鉄道の車中で撮ったものです。濁流のすぐ脇のジャン グルの中を進んでいく列車は単線のため、時折複線になっている部分で止まり、反 対方向の列車とすれ違います。冷たい雨の降る中、列車はひたすら孤独に線路を進 みます。こんな光景に僕は目の前に突きつけられる現実の揺るがなさ、みたいなも のを想起します。
現実は、ただ目の前に容赦なく突きつけられるもので、それがどんなに痛々しかろ うが、こっちがどんなに弱ってようが関係なく、誰にも平等に訪れます。ある人に とっての現実は、その人だけのものなので、非常に個人的で、孤独なものです。共 有するといっても、自分の現実と対峙できるのは結局自分一人だけです。 そんな厳しい現実と対峙したとき、人はどんな行動をとるのでしょうね。
受け入れ がたくて、逃げたくなる現実と対峙したとき、そんなの嘘だ!って叫びたくなった り、自分の無力さを痛感して呆然としてしまったり、自分から孤独になってみたり するのでしょうか。
でもまぁせっかくなら、ちょっと一息ついて、C’est la vie.って言ってみたり、仕方な いよねって肩をすかしてみたり、対峙するっていうより現実にふわっと寄り添うく らいの気楽なスタンスでいたいなと個人的には思います。せっかくの人生、どうせ ならどんな現実も逃げずに寄り添いたい。
寄り添えれば、きっと揺らぐことなく、悲しい景色の中に優しさや美しさを見出すことができると信じているから、です。
No.10 photo by はたち
●テーマ「自然-生物、そして木々」
濡れた窓ガラス、山を走り抜ける車の中でしょうか。こういう写真は、つまり 想像力をかきたてる写真は、ぼくがいちばん好きな写真です。 単純なことだけれども、ぼくは自然がだいすきです。
ハルクの写真には、そん な自然たちというものが、うっすらと、そしてぼんやりと写り込んでいる気が します。 ぼくが撮った写真は、ハルクの写真とは違い、逆にしっかりとそしてはっきり と”自然”を写した写真です。これは、京都のちいさなお寺で撮った写真。
ちいさなお寺の、ちいさな湖に映っている木々と、そしてそこにまっかな鯉が重ね 合わさった写真です。 ぼくはこれを撮る瞬間に、いのち、自然、そしていきものすべてをファインダ ーのなかに収めたいような錯覚に追われました。そして、それを収めたような 気持ちになりました。
まるで空に浮かぶいっぴきの鯉を撮影したような、なん だか現実なのに幻想的な世界を撮ってしまったような、そんな気がしたんです。 もともとぼくは、この写真のテーマを「自然」と決めていました。ハルクの写 真は、そんなぼくのテーマの写真と、ぴったり一致してくれたんです。一寸の 狂いもなく。
No.11 photo by halu9
●テーマ「風の音」
#10 の写真は木の中を鯉が泳いでいるかのような、とても静かで幻想的な写真ですね。 空に浮かぶ鯉は、ゆらゆら風に乗ってどこにでも進んでいけるようなそんな印象で す。そしてどこからか、鯉の泳ぐ水の音と、枝を揺らす風の音が聞こえて来るような気がします。
なので、今回は「風の音」をテーマにしてみました。 #11 はウユニ塩湖で撮影した写真です。積み重ねられた岩の上に錆びついた風速計が ついています。風向きや風速を昔は計っていたのでしょう。でも今はどんなに風が 吹いても、もう動きません。それでもただ風に寄り添うように、風の音に耳をすま すように、どんなに孤独でもこの場所に佇んでいます。
この場所に立ったとき、頬に当たる風は、ひんやりとしていて、でもどこか優しく て、ひっそりと耳元で何かを語りかけてきます。それは僕には自由という言葉の意 味に聞こえました。当然ながら僕らは風のように空を飛ぶことはできません。でも しっかりと大地に立って、自分の足で歩いていくことはできます。
孤独だとか、絶 望だとか、喜びだとかのいろんな感情や、思い出と出会って、それらと手をつなぎ ながら一歩一歩歩いていくことはできるのです。そして、ようやく気がつきます。 結局僕らが立っているこの大地は、360度見渡す限り全てが歩んでいける道なんだってことを。
進む意思さえあれば、どこへだって自由に歩んでいけるという、そ んなごくごく当たり前のことを。たとえ世界の果てであっても一歩一歩歩みを進め ていければ、いつかたどり着けますよね。 僕には自由の意味に聞こえた風の音は、風速計にはどんな風に聞こえるんでしょう。
風に寄り添って、風の音をただ聞きながらこの場所で佇んでいる風速計は、本当は 孤独じゃなくて、優しさを象徴しているのかもしれません。結局、人は孤独な生き 物だと僕は思います。
でも孤独だからこそ、不器用でも誰かに寄り添える優しさを 持つことができるのだと思います。写真も、ChainFocus も同じです。 この場所の風が教えてくれたように自由でありながらも、この写真の風速計のよう に優しい人でありたい。世界の果てで、ようやく一番大事にしたい自分を見つけま した。
No.12 photo by はたち
●テーマ「海に浮かぶ寂れた島」
ハルクが写真を撮った場所は、わかります。ウユニ塩湖。全面が鏡になったような、 まるで幻想的な、でも現実の写真。ぼくがハルクの写真から得たテーマは、やっぱ りそのまま、「海に浮かぶ、寂れた島」でした。もちろん、海といっても海ではありま せん。
ぼくが最初に宣言しとおり、これは塩湖です。でもぼくは想いました。海を 見たことがないひとがこれを見れば、きっと海だと思うだろう、と。
ではぼくの写真は、いったいなんで「海に浮かぶ、寂れた島」なのでしょうか。こ の写真は、インドのジョドプール、通称ブルーシティで撮影した写真です。この青さ、ブルーシティと言われる所以の壁にある「海」を、ひとつぼくは感じました。
そしてそこにあるちいさなドア、これが「島」に見えたのです。 ぼくらはみんな、おおきな海に浮かぶちいさな島です。それが明るい島でも、陰鬱な島でも、まわりに島がなければそれは「ちいさな寂れた島」に過ぎません。ぼく らはみんな、ひとりなのです。
このドアは、ぼく自身。みんな自身を表しています。孤独、ひとり、寂しさ。ひと りひとりが隠していたい、どうにか誤魔化したいそんなマイナスなイメージ達を、 凝縮したひとつのドアなのです。 ドアを開けるとか開けないとか、そんなことを考える必要はありません。
ドアが自分自身なのだから、開けるか開けないかを決めるのは、他者なのです。他者がその ドアを開ければ、きっと自分̶つまりあなたは孤独から少しだけ解放されるでしょう。他者がドアを閉めたまま無視すれば、きっと自分̶つまりあなたは、孤独から 解放されることがないでしょう。
そんな複雑なドアが、そんな複雑な島が。世界には、そして自分自身には、大量に 存在するはずです。そんな存在の一片を、ちいさな欠片を一瞬に収めて、そしてあ とから見直すことが出来るようにするもの。
それこそが、写真である。ぼくはそん な風に信じているし、そんな風になるように願っているんです。 写真の Chain は、ぼくら自身、あなた自身、そして孤独の集合体なんです。
Chain is continued…